底辺ギリギリの人生

初めに

現在は25歳、学歴は大学と専門学校中退、現在派遣で寮住まい、金融ブラック、社会不適合者の数え役満である現状を打開したく、今までの自分を見つめ直したいので文章に書き起こしてみる。簡潔に今までのことをまとめたいので、当時の状況、思い描いていた未来、あれば当時学んだことを書き記す。高校を卒業したあたりから始めよう。

 

普通科高校卒業

僕の人生は高校を卒業してから狂い始めた。高校は行ったり行かなかったり、テストも学年でヤンキーを抑えての最下位だったので卒業するまで狂っていなかったか、と言われればそうでもないかもしれないが。

当時は将来やりたいことがなく、自称進学校であったが、高校2年生の頃から「最低限食べていければ問題ないし就職しようかな」とぼんやり思っていた。働く覚悟がなかった僕は、進学率に貢献しようとする教師と、「どんな大学でも出ていたほうがいい」という古い考えの家族の説得により何も考えずにFラン大学に入学した。気持ちを切り替えて4年間の夏休みを買う気持ちで進学していたのなら有意義なキャンパスライフを送れたのかなと今ではそう思う。

Fラン大学に入学&中退

何も考えずに大学に入学したので、僕の気持ち的には高校4年生のような些細な変化であった。実家から学校までは約2時間、始発に乗らないと1限の講義には間に合わないのに加え、講義は5回まで欠席しても問題なかったので、高校と同様に行ったり行かなかったりが繰り返された。気付いたら大学の醍醐味であろうサークルの体験期間も終わっていたし、実家に引きこもっていて友達も出来ずバイトも勉強もしていない、世間一般が想像する楽しい大学生活とはかけ離れた生活であった。出席日数が足らないからと単位は諦めてテストすら欠席して自主的に早めの夏休みを取っていた僕は、趣味もなく暇だったので、疎遠になっていた離婚した母親の元へと遊びに行ったのだ。母親のもとに遊びに行ったところ、母と再婚した男性(義父)から小学生ぶりに説教を受けることになる。義父から「大学に行く意味がないから大学を辞めたほうがいい」と言われて、単位もまともに取れていなく留年も確定だったので半年も経たない内に大学を中退した。

義父は大学を辞めたあとは、元々働いていた会社に紹介してくれる予定だった。しかし紹介するのにも、入社して「使い物になりませんでした」では済まないので、その会社で使う予定のHPを完成させることが入社の条件であった。大学をやめた後、母と義父が住む家でHP制作を進めるが、結局完成させるのは無理だと諦めて途中で投げ出してしまった。母親と義父の家から出る日に、義父から「お前は社会でやっていけない」と言われて逃げるようにさっとと実家に帰った。変なプライドだけは高いので「普通に働けることを証明してやる!」という想いで地元で仕事探しを始めた。

 

初めての仕事

いざ仕事をしようにも、地元は田舎で通勤のために車が必須なので、とりあえず免許合宿で免許を取った。その後もしばらく働く決心がつかず、だらだら就活をして中退してから3ヶ月ほどで、地元の工場の夜勤専属の仕事にパートとして採用された。業務内容は健康食品の製造で一応分類としては食品工場のマシンオペレーターであった。夜勤専属で太陽を浴びていなかったせいなのか、単に合わない人が多かったせいなのか、金曜日の勤務が終わった瞬間から既に月曜日に再び始まる仕事が憂鬱で仕方がなかった。

「1年くらい働いたら社員登用出来るかもしれない」という話があったが、ストレスフルな職場で社員になるのは嫌だったので、働き始めて1年経とうしていた頃に久しぶりに母親に連絡をした。連絡をした理由は、義父に言われた言葉に対して「普通に働けてるよ」と見返してやりたいと思っていたのと、社員になってしまう前にどこかに転職がしたかったので、図々しくも転職のアドバイスを貰おうとしていたのだ。途中で投げ出した以降連絡も返していなかったのに、久しぶりに連絡を取ったら驚きつつも暖かく迎えてくれた。

 

人生の転機

母親と義父と久しぶりに会って、今は社会人としてちゃんとやれていると言うも、「世捨て人のような生活」と一蹴された。当時は「そんなことはない」と思う悔しい気持ちもあったが、実際仕事も変えたいと思っていたし、夜勤専属となると休日は眠くて仕方なく一日中寝てしまい何も出来なかったので、義父の言ったことはやはり的を得ていた。

相談の結果、義父がやっている小さな会社の役に立つ上に、将来性が高いと思われるスキルを学べる2年制の夜間専門学校に通うのはどうかと提案を受けた。スキルアップする、学んだことをすぐに実践で活かせる、お金も稼げるという一石三鳥で期待以上の提案であった。「これで人生勝ち組!」とウキウキしながら、その提案をそのまま実父に話して、懲りずに専門学校のお金を学費を100万ほど負担してもらえることになった。パートで働き初めて1年が経とうとしていた頃に、社員登用の話が課長からあったが「来年の4月には学校に通い始める」と丁寧にお断りして、これから訪れるであろう素晴らしい人生を思い描き、期待に胸を膨らませていたのであった。

 

現実

学校が始まってからは、夜から2時間の授業が週に3回あり、それ以外はアルバイトをするという生活であった。授業の内容は基本座学で最後に課題が出されて、それを次の授業までにやってくるというものであった。元々貯金がなくアルバイトを掛け持ちでやっているなか、課題をこなすのが僕にとっては難しく、今思い返しても他の学生と比べて恥ずかしいレベルの課題を提出していた。授業はだんだんと座学もなくなり、分からないところがあったら質問する、それ以外は発表か課題制作を個人で進めるものとなった。金銭面でも厳しく、結局頑張れなかった僕に対して見切りをつけた義父から辞める判断を迫られたので、断腸の思いで専門学校も半年も経たない内に中退した。僕にはもったいないくらの素晴らしい環境下だったし、もしこの時頑張れていたのならば、思い描いていた充実した日々が送れていたのだろう。

学校をやめたあとは、正社員として働くことを勧められたので、バイトをしながら義父が求人で見つけた会社に応募して、たった一度の面接と職場見学のみで正社員として入社が決まった。

 

正社員

その会社は金属部品に熱処理加工する工場であったが空調完備で室内作業、特別熱いということもなく、いい意味で自分が想像していた熱処理加工の工場らしくない職場であった。交代勤務であったものの、休みが多いわりに年収も若くして400万ほどあり、福利厚生もしっかりしていたのでストレスもなく気が付いたら2年ほど勤めていた。

人生で始めて正社員として働いて分かったことは、コミュニケーション能力の低さと注意力が欠落しているということだ。コミュニケーション能力に関しては、辞めるまでに仲が良いと言える人は3人程度しか出来なかったのだ。しかも、その3人に「会社で1番仲の良い人は誰か」と質問して、僕だと答えてもらえる自信はほとんどなかった。もちろん、それ以外の人とは気軽に世間話すらできないような関係の人が多かった。なので、会社のイベントが開催された時には中途採用ということもあるが、久しぶりに会った同期で楽しそうに写真を撮っている人達もいる中、自分が何をしていたのか全く思い出せない。

注意力が欠落しているのを自覚したのは、僕はその会社で2人目の労災での死亡事故の犠牲者になりかけた経験からである。原因は明白で、1トン近くの製品と治具を乗せたテーブルを移動させる作業の途中で他の作業のため一瞬その場を離れて、戻ってきたときにやらなければいけないことをやったと思い込んで作業の続きをしてしまい、後少しで1メートルほどの高さから落としてしまいそうになったのだ。最後まで気が付かずにテーブルを落としてしまっていたら、いずれかの場合でも大事故になっていただろう。僕は細かい事をあまりにも気にしないせいなのか、気付いていないだけなのか分からないが、今思い返すだけでも、ヒヤリハットのピラミッドの一番上の「重大な事故」”だけ”は3つくらい出てくるので、あのまま工場で働き続けていたらと思おうと非常に恐ろしい。以上のことと高校卒を含めたら出世は壊滅的、運良く出世が出来ても課長くらいであろうと自分の現状と底が見えてしまったのだ。

会社でおっさんになっても現場で働いている自分の未来と、母親と義父のいる家に嫌気が差してしまったので、正社員で2年ほど勤めた会社と家族どちらからも逃げてしまった。実家を出る時に車で流れていた藤井風の「何なんw」と早朝の冬の空気、朝日が相まってとても清々しい気持ちであった。次の仕事も決まらぬまま勢いで家を出た僕は、地元に帰る気にもなれず仕事を探すことにした。仕事がないと家が借りられないけど、逆も然りで家がないと仕事が探せないので、どちらも満たしている寮付きの仕事しか選択肢はなかった。心機一転、行ったことのない遠い土地で働きたいと思い、リゾートバイトを何個か応募して料理の経験はほとんどないが、伊豆の高級旅館の調理補助として採用されたのであった。

 

リゾートバイト①

リゾートバイトとは名ばかりで周りは一面雑木林、寮は旅館に備え付けの汚くてベッドが部屋の半分を占めるような狭い部屋だったが、人生初めての一人暮らしで嬉しかったせいか当時は特に不満もなかった。業務内容は主に、朝から昼までは朝食の提供と夕食の仕込みをして中抜け、夜は仕込んだ夕食の調理と洗い物をして業務終了というとてもシンプルな仕事であった。客室の数が少ないので忙しいこともなく、食材を落としてしまったり、皿を割ったりなどよっぽどのことがない限りストレスなく出来る仕事だった。しかし料理部長が絵に書いたような曲者であったため、簡単な業務内容の割に僕が勤めていた3ヶ月の間だけでも派遣社員が5人、社員が2人無断退職していた。厳しい環境のせいなのか、普段友人を作ることが苦手な僕でさえも、仕事終わりや中抜けに星を見に行ったり花火が出来るような友人が出来たので、そこだけは料理部長に感謝したい。

簡単な作業通りの低い給料であったが、人間関係のストレスが割に合わないため契約更新のタイミングで辞職した。今まではやりたいことがなかったが、リゾートバイトで出来た友人がワーホリに行っていたということもあり、高校生の頃に海外で生活してみたいと思ってたので、この頃からワーホリに行きたいと思い始めた。しかし、コロナ真っ只中だったし、それ以前にワーホリに行けるほどの貯金もなかったので、とりあえず働くしかなかった。ふらふらしていたところ友人から「1,500円で楽なリゾバあるよ!」と紹介されたのでそこに応募した。採用されるまでの期間やることもなかったので、一旦地元に帰って車を売ったり友人と遊んでいたところ、今回はズームで面談もあったが無事採用された。

 

リゾートバイト②

2回目の派遣先は「これぞリゾートバイト」という感じで、寮は1Rだったが広く、客が使う温泉にも自由に入ることが出来た。業務内容はウェイターだったのだがバイキング形式だったため、時給1,500円の割に仕事中何をしていたのか、今ではあまり思い出せない。強いて思い出せることといえばバッシングとコース料理の対応くらいである。革靴着用が必須であったため、朝食夕食ともシフトが入ってる時は、拘束時間が12時間以上あったため結構疲れた記憶がある。だが当時はコロナ禍であったため、最初の頃は普通にシフトに入れていたが、客数が少なくなっていったせいか徐々に減らされて、ひどい時は1週間以上シフトが入っていない時もあって結局2ヶ月で辞職した。

未だにコロナも収まらず、リゾートバイトで出来た友人が福岡に住んでいたため、福岡に行ったことがないし遊びに行こうと思い、ついでに「交通費出ないかな」と福岡で仕事を探すことにした。その友人がワーホリに行く前に自動車工場で働いていて給料が良くてお金も貯まるし、働く場所によっては結構楽だとおすすめされたので自動車工場に応募した。入寮までは数日間友人宅でお世話になった。

 

普通の一人暮らし

リゾートバイトではない寮付きの仕事をするのは初めてであったが、案内されたのが寮とは名ばかりの普通の主婦も住んでるようなアパートであった。間取りは1DKと今までの狭いリゾートバイトの寮に比べたら1人では余るほどの広さであった。自動車工場は工程ごとにやることが違い、どれだけ楽な行程に当たるのかは完全に運次第であったが、運良く配属されたラインで一番楽な行程が割り振られたのだ。基本的に毎日残業があり、休日出勤も結構あったので、お金の使い道もなくそこそこお金が貯められた。

コロナも未だに落ち着かず、ワーホリに行こうにも行けない状況だったので、福岡の住みやすさから流れでそのまま賃貸を借りることにした。半年働いた実績もあるし家賃も3万円ほどの賃貸であったが、結果親の保証人パワーで初めて賃貸を借りることが出来た。仕事先から離れた都心部に家を借りたので半年ほどで自動車工場は辞めることにした。

 

念願のマイホーム

最低限人間らしい生活を送れる程度の家具家電を揃えても、自動車工場で働いていて貯まったお金で多少余裕があり、家も確保出来たのでなんとなく達成感があり、しばらく働く気が起きなかった。この時初めてウーバーイーツが使える地域に住めたので、最初のクーポンで安くなる分だけと思いきや、ここからウーバー生活が始まってしまう。

実家を出てからやっと家が確保出来たので、仕事はいくらでも探しようがあったが、せこせこ働く気にもなれず各所で楽だと噂される治験ボランティアに応募することにした。

 

治験ボランティア

治験ボランティアはネットで調べると宿泊日数や通院回数で報酬額が違ったが、当時調べた中で1番報酬額が多いボランティアに応募した。何回か健康診断をして受からないと治験に参加できないのだが、健康診断の前日に友人とクラブに行ってしまい飲酒ができず、シラフで周りのテンションに合わせようとするのがかなりきつかった。その甲斐あってか無事健康診断の結果は合格で治験に参加することが出来た。僕が参加したのは聞いた話によると比較的楽な治験で薬を飲んだ日に採血を5回くらい、その後は2日に1回朝夕採血されるだけだった。支給されたご飯は朝は軽めのパン等で、昼と夜はどこにでも売っているような普通の弁当だった。僕はどのように過ごしていたかというと、唯一のプライベートエリアであるベッドで映画を見たり本を読んだり昼寝したりと、かなりダラダラと過ごしていた。それでいて報酬額は40万円くらい貰えたので本当に治験の楽さを体感した。

治験中は何のスキルもない僕は仕事が出来ず、治験の報酬でなんとかクレジットカードの支払いに間に合うかどうかというほどギリギリの預金残高だったので、治験が終わったら時給の高い仕事を探すことにした。ちなみに治験は1度受けたら3ヶ月は参加出来ないので、治験の虜になった僕は治験に参加出来るようになるまでの短期間だけ仕事をしようとこの時から計画していた。

 

初めてのコールセンター

時給が高そうな仕事を探していた僕はコールセンターにありついた。業務内容は新型コロナワクチンの予約受付が主な業務内容であった。接種可能な人の自宅に、はがきが届き次第、はがきに載っている電話番号に電話をかけてくるので、多い時は1日80件ほど電話で案内をしたが、市がはがきを郵送しなくなった時は1日に2件ほどしか電話がかかってこなかった。そこのコールセンターはかなり緩かったのでみんなネットで調べ物をしたりユーチューブを見たり、僕に至ってはネトフリにログインしてドラマを見たりの無法地帯だった。

ほとんど受電がなくなって何をしに行っているのか分からない状態のコールセンターは、後数ヶ月以内になくなるかもしれないとのことだったので社員の人に契約更新するか相談されたが、僕は整形も控えていたので3ヶ月ほどで辞職。

 

整形

ここで突然整形の話が出てくるが、コールセンターに在籍中にカウンセリングに行っていた。整形箇所についてはコンプレックスというほどでもなかったが、「こうなったほうがもっと良くなるだろう」というポケモンを育てる感覚で整形をした。ローンを組んだのは働き始めて2ヶ月と短い期間だったが普通に3桁の金額でも通った。想像していた先生に希望を伝えるとかそういうことはなく、先生がここをこうすれば良くなるだろうからこの施術がいいと思うという割と一方的なものであったが、今でも綺麗と褒められるほど満足した仕上がりであった。ダウンタイム期間も気分が落ち込むことはなく、やることがなく暇だったので長編アニメを2つ制覇した。

3ヶ月コールセンターで働いていたが、クレジットカードの支払いはキャッシングをしてショッピングローンを返すという限界の状態は改善されていなかったので、ダウンタイムであったが、治験に応募することにした。さすがにダウンタイムで治験を受けることが出来ず、「整形もしたし顔面活かしていこうかな」とメンズコンカフェに応募しようと思っていた頃、ホストのスカウトを受けた。

 

人生が狂い始めるきっかけ

夕方市内をナンパ兼スカウト待ちでブラブラしていたところ、ホストのスカウトをされた。1回目は新店舗が出来るからそこのキャストを募集しているとのことだったので話だけ聞いてLINEを交換して終わった。2回目は「さっき声掛けられたしもういいです」というスタンスで話を聞いていたら、体験入店にこればお金が貰えるとのことだったので、金欠の僕はすぐに店舗に移動して体験入店することにした。普段お酒をほとんど飲飲まなかった僕はお酒が弱く、気持ちよく酔ってしまい即日ホストクラブに入店することになった。

この時はワーホリどころか、整形のローンやクレジットカードの支払いが間に合うかというギリギリの状態だったので、とりあえずマイナスを帳消しにすることしか頭になかった。

 

ホストクラブ

ホストクラブの給料は店舗によるが、僕が働いていた店舗は基本給が初月は日給8000円、翌月が7000円、翌々月以降は6000円で売上が30万円以上になったら、基本給の代わりに売上の50%以上が貰えて、売上が上がるほど貰える割合も増えるシステムであった。基本的に休みは週に1回、月に25日出勤なので、最低日給で計算すると15万円は貰える計算だ。女性経験は福岡に引っ越してからマッチングアプリ等で増やしたが、元のコミュニケーション能力が低かったため、売上も伸びず代わりに経験人数だけが増えていった。夜の世界は社会不適合者ばかりなので、「携帯代が払えない」という昼の世界ではありえないことが、ホストクラブの役職者でも普通にあった。それに加えて頑張った分が翌月すぐに給料に反映されるので、お金を使ってしまっても「頑張れば来月取り返せる」という考えに染まってしまった僕は、何の躊躇もなくクレジットカードを使い始めるようになったのだ。ホストを初めて3ヶ月経った頃、売上が上がる様子もなく、クレジットカードの支払いや整形のローンも滞納し始めた。最悪なことに色ボケしていた僕は半同棲していた女の子と一緒にいたいがために休んだりして、給料が安い月だと手取りは6万円しかなかった。

そんな僕に転機が訪れた。8月末に初回に来た女の子が僕指名で飲み直しになったのだ。その子は普段東京に住んでいて、夏休みに帰省したタイミングで偶然うちの店に来た。その後も夏休みの間にちょこちょこ店に来てくれており「東京いつでもおいで~」と言ってくれていた。うちのお店はわりとマイナー店で旧ホスと呼ばれる昔のホストの風潮が残っていたので、たまに暴力はあるし酒も浴びるように毎日飲んでいて、僕自身売上も思うように伸びなく「そろそろ潮時かな」と思っていたので上京することを決意。給料日に飛ぶことを決めていたので、それまでに家の解約や片付けをしなければいけなかったが、すっかり社会不適合者になっていた僕は結局家の解約も出来ぬまま上京した。

 

ヒモ

上京した後は、ホストクラブの本場である歌舞伎町のホストを体験してみたかったので、ユーチューブにも載ってるような有名なお店の体験入店に行き、雰囲気が良かったためすぐその店舗に入店することを決めてしまった。身バレの恐れがあったので未経験と偽って入店したが、その店のレベルが高すぎて売上を作れる未来が見えなかったため1週間も経たないうちに辞めてしまった。そこからは一応仕事を探してはいたが定職につかず完全なヒモになっていた。ホストやヒモを経験したことによって僕はどこに出しても恥ずかしくない完全な社会不適合者になっていた。家の解約のために一応福岡に戻ることにした僕は、その期間の生活費や家の解約金が必要だったので短い間だったが久しぶりに昼職で働くことにした。夜職は当日欠勤や遅刻は罰金があるけれど昼職は罰金がないため、「昨日の夜寝付けなかった」からと学校をズル休みするような感覚で当日欠勤を何度かしてしまった。家も無事解約出来て「東京に帰ってからは真面目に働こう」と思ったが、それでも東京に帰ってからも改善されずに、1番ひどい時は研修の数日間だけ行ってそのまま無断欠勤を続けて退社したこともある。結局ヒモをしている間に続いた昼職は長くても2ヶ月だった。東京に帰ってきてから、何店舗かホストクラブの体験入店に行って、その中で自分に合ったホストクラブで働き始めたが、昼職との掛け持ちだったため週3のバイト出勤にした。バイト出勤だと21時出勤でいいし、昼職の残業といえば罰金が発生せずに休めてしまうのが余計社不を加速させた。ちなみに昼と夜を掛け持ちしていた理由は滞納していた借金の返済とワーホリに向けての貯金をするためであった。

一緒に住んでいた女の子は海外留学に行かないと単位が取れなかったので、元々ワーホリに行きたかった僕も絶好の機会だと思い、同じタイミングで同じ国に行こうとしていた。ワーホリは行く国によるけれど、ビザ申請などの事前準備含めて30万円あればなんとかなりそうだったが、社会不適合者にそんな大金を貯めることが出来ず、成田空港で1人留学に行く女の子を見送ることしか出来なかった。1ヶ月遅れで僕も同じ国に行く予定であったが、仕事や家を探し始めるのを先伸ばしにしてしまい、仕事や家がない状態で暮らしていけるほどの貯金もなかったため、「1ヶ月後に来れなかったら別れる」と約束を果たせずに破局した。住んでた家も出なければ行けなかったが、賃貸を借りれるお金もなく、滞納の催促等で迷惑をかけている実家に帰るのは気まずかったので、また寮付きの仕事を探すことにした。

 

現在

現在は静岡の工場で働いている。業務内容は工場の派遣らしく覚えれば誰でも出来る流れ作業のようなものだ。交代勤務で人間らしい生活とは言えないが、貯金もなく司法書士を通しての毎月の返済が少し遅れているので、少しでもお金を稼がないといけないので仕方がない。寮の周りは本当に何もなく、身分証がないとコンビニでタバコを買えないし、熊の目撃情報があり町内放送で注意喚起されたりもするほどの田舎だ。

静岡に来て間もない頃は「年収1,000万円目指して頑張ろう!」という意気込みであったが、最近は仕事どころか生きることに対してのモチベーションも低くなっている。交代勤務で滅茶苦茶になった生活リズムが原因なのか、仕事はほとんど脳死で出来る作業なので、つい生きる理由を考えてしまったりする。今までは特に考えてはいなかったけれど、福岡では好きな女の子が自分にとっての生きる意味で、東京では好きだと言ってくれる女の子にとっての自分が生きる理由であったのだ。人間に生きる理由などないが、ゴールがないマラソンを一生走り続けることが困難なように、人それぞれ生きる理由を見出して生きているのだろう。とりあえず、今住んでいる寮は来年の3月まで寮費無料で光熱費のみ自己負担なのだが、来年の4月から寮費がかかってしまい今の職場を辞職する予定なので、それまでに今後の展望を現実的に考えて決めておきたい。

 

これまでとこれから

ここまで文章を書いてきて「あの時頑張っていたら」とか、「もしも夜職をしなかったら」と今と違った未来をいくつか想像したけれど、今の選択肢を選んだからこそ失ったものも多いが、出会えた人や知れたこともあるので後悔はしていない。「後悔していない」というと、今まで努力出来なかった自分を肯定しているように聞こえるが、それは結果オーライなだけであって勘違いしないように気を付けたい。

現在25歳で履歴書は穴だらけ、スキルも仕事で通用するようなものはない。今から真っ当に生きていくとしたら工場の正社員が妥当だろう。しかし、派遣などで色々な職場で仕事を経験してきたなかで、出世が出来なくて未だに現場で流れ作業をしているおっさんをごまんと見てきた。専門性があるならまだしも、自分が30歳を超えても毎朝7時に起きて、猿でも出来るような仕事をずっとやっていると思うと、それこそ鬱になりそうだ。もし出世が出来たとしても、中間管理職やそれ以下の地位なのは間違いないだろう。学歴も高校卒なので自分より若い大卒の上司にペコペコ頭を下げて上司と部下の板挟みになるのも御免だ。

正社員をしたくないけれど稼ぎたい僕に残された道は個人事業主しかない。僕みたいに将来何者かになりたくても頑張れず、結局その日暮らしをしている若者やかつてそうであった人はかなり多くいるんだろうなとは常々思う。「大人になる」という表現が正しいのかどうか分からないが、何者かになろうとすることを諦めた人たちが30代40代になっても現場で肉体労働しているのだろう。僕は今までそういう人たちを「ああはなりたくない」と見下してきたが、何者かになろうと足掻いた人達だと思ったら、敬意を持って接することが出来そうだ。逆にいい年をして諦められずにフリーターや無職で何者かになろうとしている人たちは、今の僕からしても「ヤバそうな人」だと思ってしまう。数年後に何者かになることを諦めて普通に働くのも、諦められず蜘蛛の糸をいつまでも探し続けるのも、今の僕にとってどちらも耐え難いことなので、30歳をタイムリミットしてそれまでは頑張ってみようと思う。